紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 237
多賀城碑〜南北大路
Hitosh
多賀城碑覆屋 |
多賀城外郭南門跡を抜けると、右手に国の重要文化財に指定されている 多賀城碑覆屋(写真右端)が見えてくる。 多賀城碑は、多胡碑(群馬県多野郡吉井町)、那須国造碑(大田原市湯津上)と共に、 日本三古碑の一つに数えられている。 江戸時代初期に土中から発見されてと伝えられ、歌枕の「壷碑(つぼのいしぶみ)」と されたことから、多くの人の注目を浴び、松尾芭蕉も元禄2年(1689年)に訪れ、 「行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて泪も落ちるばかり也」 と感動して、「おくのほそ道」に記している。 |
多賀城碑 多賀城碑覆屋の格子の中の碑である。碑面には多賀城の位置から始まり、神亀元年(724年)に大野朝臣東人が多賀城をおき、天平宝治6年(762年)に藤原恵美朝臣が修造したことが刻まれている。 碑文の中に「京去千五里」とあるのが目に留まった。奈良時代の一里は約535mであるので、802.5kmとなる。蛇足であるが、この京は京都ではなく平城京(奈良)のことだ。 |
多賀城跡石仏群 多賀城碑から多賀城政庁跡へ向かう途中の左側に石仏群があった。風化してはっきりは読めなかったが、一つには萬○○寺と刻まれているようであった。 |
多賀城南北大路階段 |
多賀城の南北大路の階段である。 多賀城の中枢部である政庁から外郭南門へまっすぐ通じる道路で、 多賀城の中で最も重要な道であった。 そして、政庁の南側斜面は、自然石を並べた階段が設けられ、 道路には排水用の暗渠も設置されていた。 |
多賀城南北大路説明パネル |
階段横にある説明パネルである。 発掘当時の写真と、左側には南北大路と政庁を示す絵図が載っていた。 説明によると奈良時代の大路の幅は12mであったが、 平安時代に大路に相応しく23mに拡幅されている。 |
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