紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 303

栗原・築館城生野〜照明禅寺


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栗原


城生野集落

快適な街道を歩いていると、右前方に城生野(じょうの)の集落が見えてきた。
この辺の住所は、築館城生野要害となっている。

広大な伊治(これはる、これはり)城柵の西部に当たるところであった。

地勢が一迫川(いちはさまがわ)と二迫川(にのはさまがわ)に挟まれた
丘陵地(河岸段丘)の上で、敵を防ぎ、味方を守るに便利な地であったようだ。



栗駒山

左前方には冠雪した栗駒山(1627m)が見えるところだ。
栗駒山は、宮城県と岩手、秋田の三県に跨る山である。

この旧街道歩きも宮城県では、次の宿場である沢辺宿、金成(かんなり)宿、
そして宮城県北端の有壁宿の3宿を残すのみとなった。


大仏殿参道入口
  城生野集落の入口の右側に「大仏殿参道入口」と書かれた標識があった。
  この先の民家の先に地名(字名)大仏の由来となった大仏殿があったという。今は小さな祠があり、小公園になっている。  
照明禅寺
  街道左側に来光宝山照明禅寺がある。住所は、栗原市築館城生野要害だ。
  ここで、地元の老婦人に話し掛けられる。旧奥州街道を歩いていると言うと、大仰に驚かれた。
  照明寺の境内には、かつて学校があり、通っていたとのことであった。

照明寺境内に「伊治城跡とその出土品」と題記された説明板が建てられてあった。

伊治城柵は神護景雲元年(767年)、陸奥経営の最北前進基地として造営されたものだ。

蝦夷は大和朝廷の支配強化・拡大に対して反発を強め、宝亀11年(780年)には、
伊治郡大領の伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)が反乱を起こした。

砦麻呂は、陸奥按察使(むつあぜち)紀広純(きのひろずみ)と大楯を殺害し、
伊治城を焼き払い、さらに鎮守府である多賀城も襲撃して焼き払ったという。
乱の後、砦麻呂の行方は不明とのことだ。

伊治城はその後再建され、征夷大将軍坂上田村麻呂の北進の際の
有力な拠点になったという。



照明禅寺参道

照明寺参道には、沢山の古石塔が集められてあった。

庚申塔や六地蔵の他、己巳、甲子請供養、湯殿山等々、刻まれてあった。
建立年月は、風化して読めなかったが、殆どが江戸時代のものであろう。

また、参道入口のところには馬頭観世音が集められてあった。
此方は、明治、大正、昭和初期に建てられたものであった。
如何にも街道筋らしいところである。


(宮城県栗原市築館城生野)
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歩行略図
築館77宮野宿〜伊治城跡〜78沢辺宿



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