紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 347

平泉町・中尊寺入口〜月見坂


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平泉町

奥のほそみち句碑
  卯の花清水にある奥のほそみちの曽良の句 「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」の碑である。
  卯の花清水の名前は、この句よりきている。


中尊寺入口

卯の花清水の前よりJR東北本線の踏切を渡り、国道4号線に合流すると
左手に中尊寺がある。

最初に中尊寺を訪れた時は、未だ高速道路が無い頃、
仕事を終えた午後5時に東京の会社を出発し、夜明け前にここ中尊寺の
駐車場に到着、仮眠をとった後に参拝したのが最初だ。

その後、妻と幼い娘を連れて、やはり車で立ち寄ったことがある。

今回は、東京日本橋から徒歩で、21日(11泊)も掛けて、ここまで来たのである。
中尊寺は3度目となるが、今回は感慨も一入であった。


武蔵坊弁慶大墓所
  参道入口右側に、武蔵坊弁慶大墓所と刻まれた大きな碑があった。
  文治5年(1189年)義経の居城高舘が焼打ちされるや、弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて立ち往生する。 

弁慶の遺骸をこの地に葬り、五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ
句碑が建てられた。

「色かえぬ 私のあるじや 武蔵坊」と。

弁慶はこの場所に葬られて、五輪塔が建てられてたというが、
今は大きな松の木の下に小さな石辺が残されているだけである。


中尊寺参道杉並木
  
  月見坂と呼ばれている中尊寺参道に入る。参道の両側は、江戸時代平泉を治めていた伊達藩によって植樹された樹齢300〜400年の鬱蒼とした杉並木となっている。
  この道は、古代の東山道筋と言われており、中尊寺から奥の衣川関に降りていた。
  衣川関に通じることから、中尊寺のある山は関山(かんざん)と呼ばれている。  


弁慶堂入口

急な月見坂を上ると、左側に弁慶堂がある。

中尊寺は、嘉承3年(850年)に円仁が創建した弘台寿院に始まるという。
後三年の役(1083〜87年)後で清原氏が滅んだ後、
奥六郡(胆沢(いさわ)、江刺、和賀、稗抜(ひえぬき)、紫波(しわ)、岩手)と
山北三郡(せんぼく、雄勝、平鹿、山本)の支配者となった藤原清衡が、
豊田館(とよだのたち、奥州市江刺区))から平泉に拠点を移す。

この地は白河関と外浜(津軽半島)の中間点であるため、陸奥の中心地で
奥羽全域に号令しようとする清衡の意思の表れであった。

前九年の役(1051〜62年)、後三年の役と続いた奥羽の戦乱の犠牲者を弔うために
ここの寺院の整備を行なった。
中尊寺の寺号は、いろいろな説があるが、
その一つは奥羽の中心地に因んで名付けられたという。

吾妻鏡の寺塔巳下注文には、40余りの寺塔、300を越える禅坊が
立ち並んでいたと記録されている。



(岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所、衣関)
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歩行略図
JR平泉駅〜柳之御所跡〜中尊寺〜瀬原〜白鳥



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