紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 376
奥州市・胆沢川〜金ケ崎町
Hitosh
胆沢川河岸段丘、三代清水 |
胆沢城の西北端から胆沢川に向かう途中の河岸段丘の上に三代清水がある。 写真の畑の背後は、胆沢川が流れているところである。 三代清水は、胆沢城を建立した坂上田村麻呂、前九年の役(1051〜62年)で 陸奥の豪族阿部頼時、貞任を討った源頼義、源義家の3代の飲用に供された清水から 命名されたと伝えられている。 |
三代清水 段丘の上に降りてみると、段丘崖のところに清水がある。 説明によると、昭和20年頃までは、地元の人の生活用水として使用されていたようだ。 |
再巡橋/胆沢川 |
三代清水の上の狭い道を通ると、すぐ胆沢川に架かる再巡橋袂に出る。 胆沢川は、江戸時代初期までは徒渡りで、以後は船橋や舟渡しであった。 増水で渡れなくなった時の臨時の宿、「川留宿(かわどめやど)」が 河岸に設けられてあった。 再巡橋は、明治天皇の東北巡幸に備えた橋だ。 最初に架けた橋が流失し、再度巡幸される時に架け直されたため、 「再巡橋」と名付けれらた。 |
胆沢川下流 |
この先で北上川に合流するところだ。 写真右手が鎮守府八幡宮、胆沢城跡とあるところである。 胆沢川は、奥州市と金ケ崎町の境界を流れる川で、奥羽山脈の 焼石岳(1548m)北麓を源流として、この先で北上川に合流している。 前九年の役(1051〜62年))で、安倍貞任一族が、胆沢川を楯にして戦ったところである。 この写真の少し上流の黒沢川の合流点に、安倍氏12柵の一つ、 鳥海柵(とのみのさく)があり、前九年の役では安倍宗任が柵主となっていた。 |
金ケ崎町境界 |
胆沢川に架かる再巡橋を渡ると、今までの奥州市から胆沢郡金ケ崎(かねがさき)町となる。 うっかりしていたが、金ケ崎の「ケ」は、「ヶ」ではなくて大文字の「ケ」である。 左前方の集落が、旧奥州街道85番目の宿場のあった金ケ崎だ。 塔のある白い建物は金ケ崎町役場である。 金ヶ崎町は、西部の奥州山系の駒ヶ岳のある山岳高地から東部の平坦地まで、 1300m以上の標高差があり、町の中心部は西から東への緩い傾斜地となっている。 平成の大合併で、金ケ崎町、江刺市、北上市との3市町村合併話もあったが 沙汰止みとなっているようだ。 |
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