紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 406
花巻城下・双葉町〜上町
Hitosh
松庵寺本堂 松庵寺の山門を潜ると、目の前に独特な形状をした本堂がある。外観は石造り、屋根にはインド、ネパール等の寺院にあるパゴダ(仏塔)が立っている。 |
この寺は真言宗の学寮であったが、永禄5年(1560年)に念仏庵となった。 慶長5年(1600年)、花巻城夜討の折、当時の住職が止宿中の津軽浪人3名と共に 城を守った功績によって、城代である南部藩家臣北松斎(きたしょうさい)から寺名に 「松」の一字を貰い、「松庵寺」としたとのこと。 |
松庵寺碑と飢餓供養塔 松庵寺境内にある松庵寺と題した高村光太郎記念碑(右側)と三基の飢餓供養塔(左背後の石塔)。 |
写真右は詩人高村光太郎の記念碑である。 光太郎は、昭和20年、宮沢賢治の実家を頼り、花巻に疎開して晩年の7年をすごした。 その時、妻智恵子と父母の法要をここ松庵寺で行なった。 その折に光太郎が記した「松庵寺」が刻んである。 一部引用すると 「奥州花巻といふひなびた町の 浄土宗の古刹松庵寺で 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に まことにささやかな法事をしました 花巻の町も戦火をうけて すつかり焼けた松庵寺は 物置小屋に須弥壇をつくつた 二畳敷のお堂でした 雨がうしろの障子から吹きこみ 和尚さまの衣のすそさへ濡れました 和尚さまは静かな声でしみじみと・・・ 」 その背後にあるのは、三基の餓死供養塔である。 写真左端の供養塔は天保4年(1833年)と読めた。 宝暦、天明、天保と飢饉が続き、その時の多くの死者が当寺に埋葬され、 その時の供養塔である。 |
名匠高橋勘次郎翁父子壽碑 説明によると、高橋勘次郎は、親子3代にわたり名匠の名に恥じない数々の業績を残した岩手県が生んだ最も著名な大工棟梁とのことである。 |
三嶽神社、稲荷神社、鳥谷ヶ崎神社弁慶堂、安浄寺、江差市伊手の八幡薬師神社、 平泉中尊寺本坊等々を手がけ、往時の大工棟梁の第一人者であった。 その他、境内には嘉永5年(1852年)に建てられた、 両刃の珍しい形をした芭蕉句碑がある。 「物言へは 唇寒し 秋の風」と刻まれてあった。 |
双葉町 |
松庵寺を出ると、双葉町の商店街となる。 前方に見える信号は、上町の交差点である。 江戸時代は、この奥州街道沿いに吹張御組、向御組などの下級武士の 屋敷が配されてあった。 |
上町商店街 |
上町の交差点より、右(東側)を見た写真である。 花巻市のメイン商店街で、歩道はアーケードとなっている。 秋の花巻まつりの「おまつり広場」となるところだ。 花巻まつりは、文禄2年(1593年)、花巻の祖北松斎を敬い、町の人々が山車を作り、 町を練り歩いたのが始まりとのこと。 400年も続く、花巻市最大のイベントとなっている。 京都祇園囃子の流れをくむ優雅な花巻囃子の音色の中、絢爛豪華な風流山車、 140基にもおよぶ勇壮な神輿や樽神輿、岩手を代表する郷土芸能の鹿踊(ししおどり)や 神楽権現舞、気品溢れる花巻囃子踊りなどが繰り広げられる。 宮沢賢治は、花巻まつりを 「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる」と記している。 |
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