紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 444
盛岡城下・馬町〜盛岡城跡
Hitosh
盛岡城下・肴町 |
惣門道りより肴町(さかなちょう)に入る。 肴町は江戸時代から続く歴史ある町だ。 鮮魚や乾物を扱う魚商人や荒物商人が住む町であった。 今でも往時を偲ばせる旧商家が散見されるところである。 現在の中心部は、365mの全蓋アーケード「ホットライン肴町」となり、 約80の店舗が立ち並んでいる(後述予定)。 |
馬頭観世音、馬町会館 街道左側にある馬頭観世音。その右にあるのは馬町(うままち)会館である。 この辺一帯は、旧馬町であった。藩命により、馬の売買は当町のみで行なわれていた。 |
盛岡藩主第7代の南部利幹が宝永7年(1710年)に、 盛岡で始めて馬を売買する場所を決めた。 それが最近まであった馬町の始まりである。 藩内の馬の売買は、すべてここで行なわれたから大いに賑わったという。 馬町には大きな家が何軒もあり、一軒の家だけで80人もの馬喰を泊めていた 大正元年、馬町に会った馬検場が新馬町(現松尾町)に移され、その役目を終えた。 |
毘沙門橋 |
旧馬町を抜けると、目の前に毘沙門橋がある。 中津川に架かる橋で、盛岡城跡につながっている。 もともとは、中津川に架かる三大橋(上の橋、中の橋、下の橋)が洪水で流され、 その破片を集めて造られたものであった。 現在の橋は昭和36年に造られた人道橋である。 橋名は、この辺が毘沙門淵と呼ばれていたことからのようだ。 |
中津川北側 |
毘沙門橋より中津川の北側を見た写真である。 左側が盛岡城跡で、前方の橋が中ノ橋だ。 中津川は盛岡の中心を流れる川で、今でも鮭の遡上が見られる清流である。 |
盛岡城石垣 |
毘沙門橋を渡ると、目前に盛岡城の大きな石垣の前に出る。 南部氏の江戸時代の居城跡である。 白い花崗岩で組まれた石垣は、 土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。 戦国時代、三戸城を居城にして、北奥で勢威を伸長した南部氏は、 26代南部信綱の時、小田原に参陣し、秀吉から7郡の所領を安堵された。 翌年、対立関係にあった一族の九戸政実との九戸合戦の後、 和賀、稗貫(ひえぬき)郡を加えた信直は、領内のほぼ中央に位置するこの地に 新城である盛岡城を築城した。 この地は、中津川と北上川の合流するところで、不来方(こずかた)と呼ばれていた。 城名も、当初は不来方城と称していたが、文字が忌み嫌われ、 「盛える丘」の意味で、盛岡となった。 |
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