紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 520
一戸町西法寺・白子坂〜舘越


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一戸町


西法寺、白子坂

老ヶ舘(おいがたて)跡から一気に、白子(しらこ)坂を下る。

老ヶ舘から北側の坂道は、「山土尽く白灰なり」と、
寛政11年(1799年)、幕府奥詰医師渋江長伯が、
蝦夷探索に赴く旅路に記した「東遊奇勝」の中でも記されている。

道の両側に露出した白土の様子から、白子坂と呼ばれるようになったようだ。



白子坂・旧奥州街道

白子坂を下って行くと、前方が開けてきた。

前方の開けたところは、御所野と呼ばれているところで、
御所野遺跡(一戸町岩楯字御所野)があるところだ。

馬淵川右岸の河岸段丘にある縄文時代の大規模な集落跡で、
国の史跡に指定され、公園として整備されている。



百姓一揆結集の地/舘越

白子坂の途中が開け、見晴らしの良い高台となっている。
説明板によると、ここが百姓一揆結集の地とのことだ。

天保7年(1836年)、連年の凶作と、重税、高利貸しの悪徳商法などで
農民の生活は困窮を極めていた。

この窮状を打開しようと女鹿(めが)の大工、佐吉が近郷の同志と相談し、
福岡の代官が一戸に来た時、税の軽減と高利貸の排除について訴えることにした。

しかし、血気に逸った農民は、時を待ちきれず、町内に雪崩れ込み、
商人に乱暴したり、商店を壊したり、果ては御番所にまで乱入して
狼藉を働くなど暴徒化してしまった。

その結果、農民の多くは役人に取り押さえられ、訴えは失敗に終わった。
1年後、佐吉は首謀者として関屋川原で打ち首となり、
他の主だった人たちは遠隔地に追放されたとのことだ。

写真手前の旧奥州街道の道標には、
「直進 関屋大日堂 0.6km、 諏訪一里塚 1.3km」
と記されてあった。


百姓一揆結集の地碑
  高台の見晴らしの良いところに百姓一揆結集の碑が建立されてあった。
IGRいわて銀河鉄道
  百姓一揆結集の碑のある高台から、左に迂回するようにして坂を下ると、正面にIGRいわて銀河鉄道の高架が見えてきた。
  旧街道は、この高架下を潜る。

(一戸町西法寺 白子坂 館腰)
1111/1302

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