紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 537
二戸市福岡宿・九戸城跡


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二戸市

九戸城案内図
  安養寺の門を曲り、九戸城跡に向かと右側に、九戸城周辺文化財案内図がある。


九戸城、本丸跡

九戸城への坂を登っていくと、正面に本丸跡が見えてきた。

九戸城は白鳥城とも呼ばれ、
西は馬淵川、北は馬淵川支流の白鳥川、猫渕川に囲まれた
広大な高台の上に作られた、堅固な城であった。

城主九戸氏は、南部家の始祖南部光行の5男行連(ゆきつら)に始まり、
九戸熊野館(現九戸村)に居館を構えていたが、
明応年間(1492〜1501年)、7代の光政の時に九戸城を築き
拠点をここに移した。

1590年、秀吉の奥州仕置きで、小田原不参加の諸氏の領主権が否定された。
これに対し、小田原に不参加であった当時の城主九戸政実は挙兵した。

この城に篭城する九戸方約5000人に対し、
秀吉方の蒲生氏郷、浅野長政ら総勢6万人の奥羽再仕置軍は、
九戸城を包囲したが落城しなかった。

再仕置軍は、九戸氏の菩提寺長興寺住持を介して、
妻子らの助命などを条件に降伏を勧告し、開城させた。

しかしこの約定は守られず、政実以下の諸将は処刑され、
篭城者は婦女子に至るまで尽く殺害された。

これが、九戸政実の乱(九戸合戦)である。

再仕置きの結果、秀吉側についていた宗家三戸南部氏(信直)が
九戸城を福岡城と改名して居城としたが、
その子の利直の時の元和元年(1615年)に、不来方(こずかた)の盛岡城に移り、
寛永13年(1636年)に廃城となった。



九戸城大手門脇堀跡

本丸の右側にある堀の跡だ。
説明によると、大手門脇堀と言うようだ。

二の丸と松の丸、在府小路(武家屋敷跡)を隔てる堀跡で、
底の幅が60mもあり、日本の城跡で見られる堀跡としては最大級のものとか。



九戸城大手門跡・二の丸跡

九戸城の本丸はここで左折する。

絵地図によると、この辺に大手門があり、写真正面は二の丸跡のようだ。



九戸城本丸跡

正面が本丸跡である。

なお、廃城の時は福岡城であったが、今は九戸城と呼ばせている。

説明によると、九戸氏が築城し、また居城期間も圧倒的に長かったので、
九戸氏を懐かしみ、呼名を九戸城としたとのことだ。

なお、ここの地名は福岡で、宿場名も福岡宿である。


(二戸市福岡、五日町、松ノ丸、城ノ外、城ノ内)
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